仁照寺
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仁照寺の歴史
仁照寺
仁照寺古絵図(万延元年)
 出雲の地誌である「雲陽誌(享保二年(一七一七年)松江藩公の命により儒官黒沢長尚の編纂になる)」の巻之八 出雲郡には、神守・神照寺の項に「禅宗船子山と号す、本尊阿弥陀薬師観音各一尺三寸作不知、開基年代分明ならず、寺寶と稱して、鐃鈸(にょうはつ)一双あり、往古當村の地頭小村兵庫頭寄進なり、小村氏の末流今なほあり、寺前老樹あり側に如意輪観音を安置せる小堂あり、古老傳て云此堂昔は要專寺と号して南のやまにあり、大破以後ここにうつす。」とあります。
 古くは、舩子山神照禅寺と号していました。 創立年月日は不明ですが、寛文八戌申歳(一六六八年)に大本山妙心寺開山第十六世の法孫で、出雲郡伊波野村吉祥寺開山雲梁和尚を請して開山としたとあります。
仁照寺
寺寶 鐃鈸(にょうはつ)

 神照禅寺は、斐川平野の神守地区のほぼ中央に建立されていました。万延元年(一八六〇年)に書かれた仁照寺古絵図は、その当時を描いたと思われる。 しかるに、天保二年(一八三一年)に松江藩は、斐伊川の洪水を防ぐために、斐伊川の新支流を造ることを決めました。新支流は、出西地区剣先より荘原地区を経て宍道湖に至る幅二百メートル、長さ約十キロメートルもの壮大なものでした。当寺院は、支流造成区内にあり移転を余儀なくされました。
 移転先を決めるために、当時の住職である中興御開山桂林大和尚は、一尺三寸の薬師如来像を背負い小鍾子(カネ)を持ち遠近の山野を逍遥しました。良い建立場所がなく思案して歩いていた時、不思議にも今の小山(舩子山)に来た時、一尺三寸の薬師尊像が急に重くなってきました。桂林大和尚は不思議に思い薬師尊像を安置し、坐禅・読経すれば、 『この地良し』の御霊験あり、松柏が生い茂っていたその地を整地して今日の寺院としました。
この新支流を作る工事は、困難を極め、毎日二千~三千人が工事に携わり、二年間で五十六万五千人もの人々が動員されました。工事の途中で、寺にあった墓を掘り起し、遺骨を放置したままにしていたので、その付近で亡霊が出没し地元民を困らせました。そこで松江藩に訴えて、供養料を貰い、天保三年 (一八三二年)に『新川亡霊塔』を仁照寺境内に建立し供養をしたところ、亡霊は出なくなり、地元民は安堵をしました。なお、明治に入り、神仏分離令によって、「神照寺」という寺号には神が入っているので、やむなく寺号を「仁照寺」と改めました。現在は、船子山仁照寺と号しています。
仁照寺
阿弥陀如来 御本尊 聖観音菩 薬師如来

 仁照寺御本尊は、聖観世音菩薩(木造、坐像一尺七寸)であります。また本尊の左右には阿弥陀如来、薬師如来(木造、坐像一尺三寸)が安置されています。薬師如来の脇には日光菩薩と月光菩薩があり、その前に十二神将が安置してあります。
 また、境内には今回改築した観音堂、弘法大師堂、金比羅神宮、六地蔵菩薩像、新川亡霊塔があります。
 移転先を決めるために、当時の住職である中興御開山桂林大和尚は、一尺三寸の神仏を背負い小鍾子(カネ)を持ち遠近の山野を逍遥した。良い建立場所がなく思案して歩いていた時、不思議にも今の小山(仁照寺現在地)に来た時、一尺三寸の薬師尊像急に重くなってきた。桂林大和尚は不思議に思い薬師尊像に安置し、坐禅すれば、「この地良し」の御霊験あり、松柏が生い茂っていたその地を整地して今日の寺院とした。

 なお、明治に入り、神仏分離令によって、神照寺という寺号には神が入っているので、やむなく寺号を仁照寺と改めた。
 本尊は観音菩薩(木造、坐像一尺七寸)である。また本尊の左右には阿弥陀如来(木造、坐像一尺三寸)と薬師如来(木造、坐像一尺三寸)が安置されている。薬師如来の脇には日光菩薩と月光菩薩があり、その前に十二神将がある。
歴代住職
開 山 雲梁晟和尚大禅師  
中興開山
桂林文和尚大禅師 桂林文和尚大禅師
文政五年(1822年)九月二十六日寂
二 代
要峰樞和尚大禅師 要峰樞和尚大禅師
文久二年(1862年)四月十九日寂
三 代
廣宗博和尚大禅師 廣宗博和尚大禅師
大正二年(1913年)三月十六日寂
四 代
榮林欣和尚大禅師 榮林欣和尚大禅師
大正二年(1913年)九月十五日寂
五 代
操山曹和尚大禅師 操山曹和尚大禅師
昭和二十年(1945年)九月二日寂
六 代
関宗通和尚大禅師 関宗通和尚大禅師
平成四年(1992年)九月十二日寂
七 代
法山道禅師 法山道禅師
現住職
 
 
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