報道関係

2008年(平成20年)9月25日(木曜日) 鷹の澤新聞
 今回の論説は、それぞれの『メッセージ展』への思いを綴りたい。
●私は九徴祭のときに、少しだけハートを貼り付ける作業を手伝ったが(なぜか山陰中央新報に載ってしまった)ハートの一つ一つが一つの命のように重く感じられた。
●最初は、インタビューに専念しようと思っていたが、下の階に降りて、事故等で亡くなられた方のオブジェに付けられたメッセージを読んでいると、ついそっちを読むことに真剣になってしまった。読んでいると、僕と同世代の人が何人もいることに気づいて何とも言えない気分になった。今(同世代の)自分は、ここで無事にいてこれを読んでいるのに、相手の一方的なミスや故意によって、このメッセンジャーは亡くなり、その家族は今でもとても悲しんでいると思うと複雑な気分になった。中にはまだ3・4歳の子もいて、とても悲しくなった。しかも読んでいると、警察の捜査の甘さを指摘するのも多くあった。家族にとってはとても辛いことなのに、それを本当に他人事のように取り扱ったケースもうかがえ、それは許せないと思った。しかしそんな中にも、自ら調査し、証拠を集め、再び裁判をして罪を認めてもらった人も何人かいて少し元気が沸いた。遺族の記した文章の中には「これが最後の言葉でした」といったものが多く、「もっとこうしたかったに違いない、こうしてあげたかった」という言葉も多くあった。このような思いは、この『メッセージ展』のような機会を得ないと気づかない。また、一度気づいたとしても忘れがちになりそうなことだが、本当に身近なことなんだと、改めて思った。家に帰ってこのことを話すと、母もちょうど行きたがっていて、次の日に再び家族で行った。こういうように、人伝えにでもそのことが伝わり、生命の重みを知る機会を与えることはとても大切なことだ。もっと多くの人に知ってもらいたい。そんな気持ちになる1時間だった。
生命を突然奪われた人々のメッセージを受け取るとともに、今生きている私達は、生命があることに感謝して、自分や他人の生命を大切にしたい。生きる権利は全ての人にあり、一瞬でそれが簡単に奪われることがあってはならない。
命の大切さを改めて考えさせられた。こんな亡くなりかたをする人が少しでも少なくなれば良い。
人生を強制的に終わらせられた人達の無念さを感じた。と同時に、法律が遺族に与える無常さも感じた。法律が感情に左右されないのは、当たり前のことだ。しかし、家族を失った人達には冷たい言葉としか取られないのだろう。事件や事故で考えるべきことは、罰則の強化もだけど、このことでの救済も必要だと思った。
いつ何時、自分もあの場に並ぶ人間になるか分かることではない。日々を大切に生きよう。また事故の加害者にならぬよう、気をつけなければと改めて思った。

 生命の重み、考えてみて下さい。
 

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